「もぐらで音楽会」のご案内
「もぐらで音楽会」は、年4回程度の適宜の時期に開催する自由参加の音楽会です。
ジャンルを超えて、自由に音楽を楽しんで頂きたいと思っています。
音楽だけでなく、夏は海で泳ぎ、春や秋にはサップなどで海で遊ぶのも自由です。
海は、街が近いのでゴミが流れ着きますが、海水はとても綺麗です。
音楽とともに金輪島の自然を楽しみ尽くしてください。
砂浜の散歩も潮風が気持ちがいいです。シーグラスや貝殻を探すのもお勧めです。
原爆のとき、中心部では、爆風で窓ガラスが吹き飛んだとききますから、その時のものかもしれません。タイムスリップした感じて・・・想いを馳せるのも、たまにはいいと思います。
ブランコやハンモックに揺られながら、ノンビリ生音を聞くのも最高の癒し、贅沢です。
秋には、レモン狩りや芋ほりを体験できます。無農薬栽培で、丹精込めて作っています。
〇 日程
基本的なパターンは、
12時00分市営桟橋発の船に乗り来島、直ぐにBBQをお楽しみください。
13時の船で参加も可能です。
14時頃から順次、音楽会を開催。1組(人)持ち時間30分。
18時頃、音楽会終了。
18時30分金輪島発の定期船で帰広。
みたいな感じです。参加人数等により演奏時間、スタイルは変わります。
年1回程度、秋ごろに、通常BBQをしているデッキを「ステージ」に、芝生広場を「観客
席」にしてBBQをする野外ライブ形式で開催します。
海に向かっての演奏は格別です。広島湾に向かい、原爆で海の藻屑となった人々を偲び、
鎮魂歌を奏でたいと思います。
〇 料金
音楽会に参加する人も、聞くだけの人も、海などで遊ぶ人も、みんな一人3000円。
バーベキュー代を含みます。
子供料金は、小中学生は1500円、幼稚園児以下は無料です。
飲み物は、別途料金で、一杯500円です。
10枚綴りのチケットを購入頂くと一杯400円になります。
〇 予約等
事前予約が必要です。
下記のアドレスにメールで申込ください。
● 2026年の予定
4月12日(日)
7月25日(土)
特別料金として、花火大会終了後の貸切船料金を含め5000円
8月23日(日)
11月8日(日)
の年4回の予定です。
変更する場合は、ホームページに記載します。
広島市南区宇品町金輪島
マリンリゾート 土龍(もぐら)
電話番号 090-9467-2119
メールaddress [email protected]
福井 和久
広島駅や紙屋町・八丁堀エリアから公共交通機関(市内電車約30分+定期船約10分+徒歩10分で到着)で手軽に日帰りできる一日一組限定、完全貸切の金輪島・マリンリゾート施設です。5名様以上で要予約、BBQ付一人3000円からの低料金、簡単料金設定です。
BBQをした前後に、音楽(ライブ・演奏)、海水浴、サップ、釣り、フルーツ狩り、各種スポーツなどの娯楽施設をご利用頂けます。
800坪の敷地は、無農薬にこだわり、海浜・里山のそのままの自然と触れ合いながら、家族や友人の気の知れた仲間同士で、一日~半日程度は、のんびり、まったりと過ごしていただくことをコンセプトに運営しております。
特に、子供達には、自然な環境で逞しく、自由に遊んで欲しいと思います。
子供食堂や各種子供会の皆様、幹事の皆様には、子供の安全さえ確保頂ければ、どのような要望にも前向きに応えたいと思います。どうかよろしくお願いします。
是非一度、予約して来てみてください。
それから「実際に見てみたい」という方は、下見なども歓迎しています。
5人集めるのが面倒な方は、定期的に「もぐらde音楽会」というイベントも開催しております。ライブを観るのも含め、自由に気ままに遊べるイベントです。是非、ご参加ください。連絡お待ちしております。
当施設の利用方法は、5名様以上でBBQとセットで島の自然やライブ施設等をご自由に貸切利用して頂くことを基本としています。
それは、手に障害が残り、すぐに料理などを提供することが難しい私が一人で1日お世話でき、一応、1日の私の日当が出る最低ラインとしてこれがベストのパターンだと思ったからです。
私一人のお店なので、普通のライブハウスのようなきめの細かい接客は難しいです。でも、お店も10年近くが経過しましたし、基本的なPA作業や照明作業等はできます。
障害者の私が一人でお世話でき、私の最低の日当さえ出ればいいので、様々なニーズに応じて、使い方としては、いろいろと相談して欲しいと思います。
また、趣味で音楽を楽しんでいる方など、この場所で、原爆で亡くなられた方々に「鎮魂歌」を捧げたい方、「平和を祈るコレクション」を一度見てみたい方などは、このホームペーシの「お問合せ」からメールください。
「マリンリゾート土龍(もぐら)」のライブ等の紹介PVです。
当初は、ライブハウスとして営業を始めましたが、音楽以外の様々な施設も充実してきました。音楽に限らず、夏は海水浴とか、春や秋にはサウナとか、果物狩りとか、自由にこの場所を楽しんで頂きたいです。
◇料金の概要◇
◇◇◇予約営業のみ◇◇◇5名様以上
1 BBQセット1人前
3000円~
※ 子供料金
小学生・中学生◇1500円◆◆幼稚園以下◇無料
※ 冬季◇BBQを鍋に変更
2 飲み物◇オール 500円
※ 1ドリンクオーダー制です。
〇 施設の使用料はすべて無料
ただし、サウナについては、残念ながら、広島市の許可がおりませんでした。
あくまで、友人としての個人的なご利用になります。サウナをご利用希望の方や興味のある方は、できましたら、フェイスブックの友達申請を一言添えて、どうかよろしくお願いいたします。
※ 詳細は、電話・メールで問い合わせください。
予約等連絡先
広島市南区宇品町金輪島
マリンリゾート 土龍(もぐら)
電話番号 090-9467-2119
メールaddress [email protected]
福井 和久
2019年4月に浜沿いにあった漁師小屋を改装した「つりぃHOUSE」の様子です。ライブ時の楽屋や小グループでの休憩場所、友人の宿泊場所などに利用しています。
◇施設の概要◇
広島市の南東1kmに浮かぶ金輪島にあるマリンリゾート施設です。
広島市内から意外と近く、800坪の海で隔離された牧歌的雰囲気の残る空間です。
広島駅又は紙屋町・八丁堀から約1時間(市内電車30分+渡船10分+徒歩10分)
公共交通機関のみで、日帰り可能なプチリゾートです。
定期船は、一日10往復あります。始発が広島市営桟橋6時40分発、最終が金輪島発20時40発です。
BBQの後、サップ、海水浴、釣り、フルーツ狩り、芝生でのスポーツ、楽器演奏などを自由に楽しんでください。施設の利用料は、一切無料です。季節のフルーツ狩りは、多少のお土産も可能です。
5名様以上の完全予約制で、貸切利用ですから、他のグループと一緒になることもありません。開放的な空間でコロナ禍でも比較的安心です。
ご連絡は、「問い合わせ」又は、予約等連絡先への架電でも、結構です。
サウナをご利用希望の方や興味のある方は、友達としての個人的な利用になりますので、新規の方はFacebookの友達申請が分かりやすいと思います。Facebook(「福井和久」) でも、情報をアップしております。ひとこと、「ホームページ見ました。サウナに興味があります」とかメッセージを頂けたら幸いです。
広島市南区宇品町金輪島
マリンリゾート 土龍(もぐら)
電話番号 090-9467-2119
メールaddress [email protected]
福井 和久
2023年1月に完成したサウナです。なかなか気持ちのいい空間で、いま、もぐらの一押しの施設です。
室内からウッドデッキ越しに海を望む風景です。右手が元宇品、大きな建物はプリンスHです。左の島が似島、正面が宮島です。
今は、相当、進化してます。赤い屋根のお家は改装し、ビニールハウスは撤去、草ぬきも小まめに行い、芝も生え揃い、果樹も育ってきました。
日の長い季節はプリンスHの右手あたり、寒い季節には似島の安芸小富士の左手に夕陽が沈みます。
2023年5月には、プリンスHで、サミットが開催されました。
沢山の人に知って頂き、ここが気に入った方の憩いの場所となればと願っています。
Googleストリートビューを導入しました!店内からビーチまでぐるりとご覧ください。
◇◆自己紹介◆◇
◆1 出身地◆
私は、山口県下関市で生まれ、育ちました。
高杉晋作が吐血した場所、松田優作が育った場所、幕末の頃、賑わった歓楽街の近くです。竹崎、今浦あたり。今は面影はありませんが、子供の頃は、街には、華やかな名残がありました。
関西小学校、文洋中学校、下関西高校に進み、大学は京都の立命館大学に進学しました。とにかく、京都に住みたかったので、本当に楽しい4年間でした。
今でも、春と秋のいい季節に2泊の京都、奈良の小旅行にいくのが楽しみです。株主優待で宿泊費がタダになるホテルに泊まり、有効活用しています。今は、朱印集めとか仏像やお庭、庭木をめでるのが楽しみです。博物館にも行きます。歩くのも楽しくて、60代になり、あの頃とは一味違った楽しみ方ができるようになりました。
特に、最近の京都は、夜の拝観もやっているところがあり、別世界に飛び込んだような感動があります。
子供の頃は、家の周りの路地裏が遊び場で、ガキ大将でした。夏は、毎日、蝉取りばかりで、殺生していました。
最も、古い記憶はというと、まだ、言葉もしゃべれない多分2歳位の頃のこと。
家のガラス窓に蜂がいて、逃がしてあげようと窓を半分開け、そっとたたいて知らせたつもりが、蜂が怒って刺してきて、びっくりして大泣きした記憶があります。鼻の右寄りを刺されました。その時、蜂が危険だと学習したのだと思います。「ほら、跡があるだろ」と小学生の頃は友達に見せて自慢していましたが、今は、もうありません。何が自慢だったのか分かりませんが、武勇伝みたいなものだと思います。
私は、何より、蜂に自分の「助けてあげたい」という思いが伝わらなかったことが本当に残念で「何で?」と思ったこと、多分、生まれて始めての「善行」と「その裏切り」でしたから、とにかくショックで、だから、何となくですが、そのことの記憶はありました。
◆2 思い出の場所 宇佐◆
父は昭和2年12月生まれで、終戦の時は17歳、宇佐の航空隊に属し、宇佐で終戦を向かえました。
父の死後、下関の実家を整理していたら、その当時のノートが出てきました。
丁寧に挿絵なんかも克明に書いた日記に近いもので、最後は、特攻に行く直前の先輩たちの遺言らしき寄せ書きもあって、しばらく、涙が止まりませんでした。
特攻に行く前の心象風景は、映画などでよく描かれる場面でしたが、その方々の直筆の文字、約80年前に書かれた文字の実物を目の当たりにし、手が震えました。
数日後に、宇佐から高知に行き、帰りの燃料を積まずに、飛び立つ人の心境「特攻隊」をじかに感じることができました。本当に、手が震えました。
金輪島で感じた原爆の遺品と同じ匂いがする感じがしました。
コピーはとっていますので、興味のある人は、是非、見て欲しいと思います。
このノートのあるべき場所を考えていましたが、宇佐市に戦争にまつわる記念館の準備室があり、ネットで問い合わせをすると「寄贈を受け付けます」と回答がありました。沢山の皆さんに見て頂き、大切に保存されることを望み、寄贈を決めました。
数年前宇佐に持って行きました。脳梗塞をしてから初めてのコロナ禍の旅でしたので、多少の不安もありましたが、手渡したかったので、無事に引き渡し、安心しました。
父が若い時に過ごした宇佐の地を初めてを訪れましたが、あの頃を想像できる牧歌的な風景でした。国東半島や小学校の修学旅行で訪れた別府などを回り、無事に帰りました。
◆3 思い出の場所 豊北町◆
父の故郷は、今は合併して下関市ですが、旧豊浦郡豊北町粟野というところです。小さい頃、よく遊びに行きました。一人で1週間位お邪魔していました。近くに角島大橋があって、海の美しいところです。
おばあちゃんなどから、大切にしていただきました。夏休みの宿題で、植物採集をした記憶があり、おばあちゃんが野の草の名前とか特徴とかを全部知っていて、随分助かりました。
父の昔話や戦争の話を色々とききました。
晩年の父はかなり痴呆が進んでいましたが、車椅子を押しながら、市内の様々な場所を散歩しながら、色々と昔話をしました。
◆4 晩年の父の想いで◆
「・・・お父さん、戦争の時、宇佐にあった航空隊にいたことを覚えてる?」
「いや、覚えとらんなぁ。ほうかぁ、そんなことがあったんか」
「終戦のあと、豊北町の実家に帰らずに、下関のドヤ街をうろついていて、お婆ちゃんが迎えに来てくれた話は?」
「そうそう、それは、覚えとるでぇ。村のみんなに盛大に見送られたからなぁ、照れくさくて、帰れんかったんじゃぁ。でも、あの時は、本当にうれしかったなぁ」としみじみと・・・
急に、目の焦点が合い真顔に戻り、母の愛情だけは「忘れられない」様子でした。それは、父がまだ17歳の時の話です。
17歳で日本のために自ら死を覚悟し、死ねなかったことで、故郷には帰りずらかったという信じられないような時代を過ごしてきた父の話です。
あれから、60年以上の月日が経過しました。私は、そんな日本を愛し、必死で日本のために働き、人生を全うした幸せな人生だったと思います。
御婆ちゃんから「戦死したとあきらめていたら、近所の人から下関で研ちゃんを見かけたよって話を聞いて、急いで向かえにいったんよ。生きていてくれて、本当よかった」と聞いていました。
本当に、生きててよかったです。でないと、私は生まれていませんでした。
私が子供の頃、父親から好きな歌として教えてもらった歌は軍歌ばかりでしたが、父の死に際に、親しい人で、一番好きだという歌をうたいながら見送ったのですが、その時には、うさぎおいし・・・という「故郷」に変わっていました。
◆5 思い出の場所 松山◆
母の故郷は、元々は、松山市の山奥の久万というところです。今は、久万高原町といいます。砥部焼の近くです。
お爺さんの話では、元々は松山藩の武士でしたが、何かしらやらかして、久万に逃げて行き、そこで庄屋をしていたそうです。爺さんの代に、借金をつくり、土地を売り、大阪から北九州市へ移り住んだようです。
「松山から久万に移ったとき、何かしらやらかしたのが橋の上で、その橋の名前が【福井橋】と名付けられ、残っているらしい」と、お爺さんが若い時、ルーツを探し歩き、お寺の坊さんに聞いた話らしいのです。お爺さんは「福井橋」を見つけることができなかったので「和久、お前が福井橋を捜せ」と託されたのを記憶しています。松山に遊びに行った際に、タクシーの運ちゃんに聞いたり、地図を見たりしましたが、本気で捜そうとしていません。
でも、いつか、お爺さんの意思を引き継ぎ「福井橋を捜す旅」も、どこか懐かしくて、やりたいことの一つです。
◆6 思い出の場所 北九州◆
私が記憶しているのは、そのお爺さんは、八幡製鉄病院の歯科技工士をしていて、北九州の八幡に住んでいました。
若松と戸畑に架かる鉄色の橋「若戸大橋」、その近くのアイススケート場で、生まれて初めてのアイススケート体験をするはずでした。しかし、浮かれ過ぎ、はしゃぎ過ぎ、控室からリンク場に向かう通路で、ゴムが敷いてない所まで行き、派手にこけて、それが恥ずかしくて、ずっと、すねて膝を抱えて泣いていた記憶があります。小学生の低学年だったと思いますが、余程、悔しかったのか、今でも、そのことは覚えています。
それから、小倉には良く買物に出かけました。初めて手にしたギターは、キャツアイ製の5万円のギターで、大学の入学祝いに姉が買ってくれたのものです。それも魚町商店街の楽器屋さんでした。よく考えてみると、2歳違いですから、すごいことです。
路面電車は、懐かしい記憶があり、チューリップの「夕陽を追いかけて」は、心に響く好きな曲です。京都でも2回生のときに、西大路などの最後の外回り路線が廃線になったのを覚えています。その時の電車が今は広島の街を走っています。
◆7 思い出の場所 門司港◆
そのお爺さんは、晩年、裏門司に住んでいました。バスの終点だったという記憶はありますが、地名は思い出せません。毎日、好きな釣り三昧の日々を送っていました。下関からも近く、泊りとか日帰りとかでよく行っていました。
近くの漁港でクサフグが沢山釣れると聞いて、釣りに行き、釣った魚は、おばあちゃんが一口サイズの握り寿司にしてくれ、食べたものです。のんきな時代です。大丈夫でした。よく、あちこち釣りに連れて行ってくれ、私の釣りの師匠という感じでした。
中学生の頃には、自転車で関門トンネルを通って、門司港の海水プールまで、よく遊びに行きました。トンネルは、中央の県境のあたりまで、下りになっていて、途中から海水が沁み出ていて、真ん中に近くなると、怖くなって、ブレーキを掛けたり、ハンドルを切ったりすると、滑ってよく転びました。ブレーキを我慢できれば、こけないのですが、コントロールできずに、人にぶつかったこともあり、友達と勝負するには、程よいチキンレースでした。本当に無茶をしていました。
最近、行ってみると、門司港あたりはレトロの街として、観光地化され、すっかり様子が違うのには驚きました。
関門トンネルも綺麗になっていましたし、自転車で攻める人もいませんでした。
大学生になってからも、同級生が関西から遊びに来て、爺さん家に一緒に行き、釣りをしたのを覚えています。
◆8 母と鑑定団のはなし◆
今は亡き母は、西南女学院高校の出身で、それは結構自慢だったみたいです。
母が同窓会に出席し、「何でも鑑定団」の安河内 眞美さんが同窓生で、檀上であいさつをして「何でも持って来て下さい。鑑定しますから」と言ったとかで「和久どの掛け軸にしようか?」と言っていたのを覚えています。
今度、そのエピゾードを添え、やり方は本望ではありませんが、採用されるために話題性を優先し、田中 大さんの思文閣で買った掛け軸を鑑定依頼しようと思います。「セカンドオピニオン」みたいな趣旨でいこうかなと。
母は、茶道の先生をしていて、丁度、映画の「日々是好日」みたいな晩年でした。
通販の思文閣のカタログを毎回楽しみにしており、割と買っていたと記憶しています。あれこれと相談され、私が京阪沿線の京都のお店まで取りに行ったこともありました。あれは、確か、本阿弥光悦の軸だったと記憶しています。姉が持って帰ったものですが・・・。
◆9 思い出の場所 田川◆ 「顔面鮮血殺人事件」と「ミョウガが妙な殺人事件」
それと、田川に曾祖母がいて、年2回は、遊びに行ってました。
五木寛之氏の「青春の門」の舞台となったところで、まだ、その頃は、炭鉱の跡などが見られました。
曾祖父の自転車の後ろに乗って見ていた風景ですが、沢山のぼた山から、煙があがっている真夏の殺伐とした風景を不思議とよく覚えています。
自然発火によるものらしく、夏の風物詩でした。ぼやになることもあて、消防車のサイレンの音がよく響いたと記憶しています。
確か、大雪が降った冬日に、曾祖母の家の側で、白い雪を見ていると、急に、自分の顔型がとりたくなって、顔面を思いっきり柔らかい雪に押し当てると、鼻をコンクリートの石か竹で打ったようで、鼻からの鮮血で顔型が真っ赤に染まって、誰が血を流したのか分からず、それを見て、びっくりしたという話「顔面鮮血殺人事件」・・・実話です。誰も死んでいませんでしたが・・・
いまでもはっきり覚えています。寒さで鼻の感覚がなく、何が起こったのか、しばらく分からなかったのです。ただ、真白な綿雪が降りしきる中、鮮血の紅が異常に目立ち、白と紅のコントラストが鮮やかで「子供が顔から血を流し、うずくまっているけれど何があったのかしら。交通事故・・・」と。
本当のことが恥ずかしくて言えず、そのうちに、近所の人が集まってきて、割と騒ぎになりました。
そんな曾祖母は、ミョウガが大好物で家の周りに沢山、植えていましたが、がん掛けし「ミョウガ断ち」をしたから、誰も食べなくなった話も、不思議と覚えています。
一番好きなものを断つと、願いが叶うと、でもそのことを誰にも言ってはいけないらしいのです。だから、曾祖母の願いは、教えてくれなかったけど、曾祖父がその頃、ガンで入院したので、多分、そのことだったと思います。
それにしても、一番好きな食べ物がミョウガなんて「うそだろう」「何て質素な時代」と、明治生まれの曾祖母の思い出話「ミョウガが妙な殺人事件」でした。
何度か英彦山にも泊まりに行きましたし、大学生の頃に母と上野焼の熊谷紅葉さんの窯に行ったのも、よく覚えています。
◆10 思い出の場所 大阪◆
母の実の母は、大阪に住んでいて、何度か遊びに行きました。幼稚園の時と大学生になってからと2回、はっきりとした記憶があります。
大学生になってからは、梅田の「阪急の32番街」で待ち合わせをして、分からなかったらしく1時間くらい遅れた記憶があります。
再婚した先のおじいちゃんが亡くなってからは、下関の実家の隣に住んでいました。
まだ、小学校に上がる前の幼稚園の頃、新幹線のない時代で、急行か特急に乗り、下関から大阪まで半日以上かかった頃の話しです。母と二人で、大阪まで遊びに行きました。
大阪まであと1時間くらいだったので、姫路から神戸の間だったと思いますが、母が「停車時間内で大丈夫だから、アイスクリームを買って、食べよう」といい出して、私は一人取り残されるのが怖くて、反対したけれど、母は、案の定、時間に間に合わずに電車が出てしまい、一人取り残される事件がありました。
意外と私は冷静で、隣の席にいたおじさん事情を話し、車掌さんに連絡してもらって、私は、名前を名乗り、母の荷物を指さして、しばらく、車掌室で待機し、次の電車で無事に合流できたという話しで、迎えに来ていた祖母とも無事に合流できました。
母は、泣きながら「子供がどうしてもと駄々をこねたので仕方なかった・・・」と。私は、「大人の事情で・・・プライドもあるしなぁ・・・まぁ、多めに見て上げよう」と余裕の対応で、金田一少年みたいでした。
確か、この時、天王寺動物園でも、勝手にどこかにいって、迷子になり、園内放送されましたが、私は、この時も、泣かずに、冷静に対処しました。園内放送されるのは快感でした。いざというときは、冷静に対処できる大人びた泣かない子供でした。
祖母が「御堂筋線から大黒町で向いの電車に乗り換えて、何個目のかの駅だからね」といったのを覚えています。確か、住之江公園駅近くの団地で、大阪南港まで直ぐだったと思います。そこから先は覚えていません。
子供の頃の記憶としては、毎夏に行っていた豊北町の山と川、田川のぼた山、小倉の商店街、門司の海岸の景色がどこか懐かしく、私の人間形成の原点ともいえる場所で、今も鮮明に覚えています。沢山、遊びました。
◆11 思い出の場所 京都①◆
大学生の時の記憶に残っているエピソードを4つ程、紹介します。
私は、横の通りが太子道、縦の通りが御前通りの家に下宿していました。
入学した4月頃の日曜日に、二条城に行き、観光していたのですが、その時の格好がオーバーオールに下は下駄でした。多分、中村雅俊の影響だと思います。
そうすると、変な外国人が変な言葉でしゃべりながら近づいてきて、私の下半身をヒデオ撮影しながら、多分「日本人は皆これを履くのか」みたいなことを聞いていたんだと思います。それで「勝手に撮るんじゃあないよ」「周りは皆日本人だけど、下駄を履いているのは私だけ。見れば分かるだろ」なんて、笑いながら、返してました。
すると、日本人の通訳らしきおじさんが慌てて近づいてきて、この人は、ブエノスアイレスの市長で、今は軍事政権の国のナンバー2の人であること。ポルトガル語かスペイン語か忘れたけど、共通語で、英語はほとんどしゃべれないことなんかを教えてくれました。6~7人のグループで、秘書のお姉さんが美しかったけど、残念ながら、このおじさんとばかり話していました。その人は、大使館のお偉いさんみたいで、古い友人だから、ボランティアで案内しているんだとか言ってました。
途中から、一般の人が入れないところを案内してくれました。いろいろと、非公開の庭なんかも見ました。
そのうち、屋内で、昼食を用意しているらしく、坊さんらしき人が数えると一人多いことにやっと気づいたようで、「あんた誰?」「あそこの門から出ていって」と冷たく言われたという話し。
それが見たこともない大きな通りで、帰り道の方向感覚を失い、元いた場所にも戻れず、道に迷い「タイムスリップ?」と思いながら、大変な思いで帰りました。
夕方とか夜のニュースに私も大きく映っていました。
今、考えると、市長は笑っていましたが、軍事政権のナンバー2なんて、自由に、日本に来れるのかよって話。
多分「平和ボケした国民をあきれてみてたんだと」護衛の人が3~4人はいて、ピストルを向けられた話だと思います。今考えると、怖い話です。
無事でよかったと・・・そう思います。
◆12 思い出の場所 京都②◆
大学2回生の冬の話。
2年間、ほとんど授業に出ず、遊んでいました。
サークルには、結構、顔を出していましたから、例えば、クラスの友人がサッカーしてたから「俺も、混ぜてよ」と近づいていくと、体育の授業でして、先生が近づいてきて、「君は誰だ?」と聞かれたことがあった程でした。
それで、2年の成績表を見ながら、「このままでは、卒業できない」と反省するために、竜安寺に石庭を見に行きました。夕方の拝観ギリギリの時間だったと記憶しています。
しばらく石庭を見ていると、紫の袈裟のいかにも位の高そうな坊さんが「悩みごとがおありかな」といいながら近づいて来て
「君はあれが何に見えるかな?」
「いや、いや、石にしか見えません。僕には・・・想像力がなくて・・・」
「普通なら、龍とか雲とか・・・に見えるんだか・・・かなり、重症みたいだな。ここへ、来て座り給え。この庭の全ての石が見えるのは、ここ一点だけなんだよ。ここで心を研ぎ澄ませ、無心になって、心の鏡だから・・・何かに見えるようになるまで、心を落ち着かせ・・・つきあいますよ。しばらく、見ているがいい」と。
内心「何か、比喩を言わせたいんだろうけど、絶対に、僕はいわないよ」と意地になって・・・無毛な会話が続いたという話でした。
勿論、私は、下衆な低レベルの人間ですが、その坊さんも袈裟は立派でしたが「なんか何か例えを言うまで、意地でも帰さんぞ」みたいな感じで・・・
それがおかしかったという話しです。
この時の反省が功を奏したのかは定かではありませんが、4年で無事卒業しました。
◆13 思い出の場所 京都③◆
大学2回生の春の話。
冬休みの時に、旅先の尾道で知り合った京都の南の方の短大生と仲良くなって、よく遊びに行っていました。旅先でも、人の写す写真に、元祖ひょっこりくんのように、他人の写り込み、連絡先を教え、連絡を待つというひきょうな作戦でしたが、2分の1位の確率で返事がきました。
おっとりとした可愛い娘でした。一週間に一度くらいの頻度で遊びに行った記憶があります。動物園に何度も行きました。
春・夏が過ぎ、秋になった頃、大学の学園祭に遊びに行った帰りだと思います。彼女から「いつも、私からばかり電話しているの・・・たまには、電話かけてよ」と言われて、いいよと、マッチの裏に電話番号を書いてもらい、次の日曜に必ず電話するよと約束しました。必ず、教会に行く日なので、家にいると電話は日曜でした。
それが、タバコの火はいつもマッチで着けていましたが、マッチ棒がなくなって捨てたらしく、当日、電話する日に、そのマッチがないことに・・・部屋中何度も何度も探しましたが、珍しくゴミを捨てた記憶もあって、どうしても見つからなくて・・・知っていること言えば、大学と、住んでいる市までと・・・名前と、毎週教会に行くことと・・・電話帳を見て、100件以上電話する勇気はありませんでした。
その日以来ぷっつりと連絡は途絶え、それで終わったという淡い恋物語でした。
今は、スマホがあるからいいですが、そんなアナログな時代に生きていました。彼女は、電話を待っていたと思います。電話が来なかったので、心変わりと思ったんだと思います。彼女を傷つけたことが辛かったです。
◆14 思い出の場所 京都④◆
京都時代の下宿先は、4年間、一度も変わらずでした。京都らしい古い家で、不思議な造りで、四方が部屋と通路で囲まれ、紐で開け閉めできる天窓から外からの光が僅かに差し込む暗く、風が通らない部屋でした。3畳2部屋を改造して1部屋にしたようで、入り口が2個ありました。
今みたいにクーラーなどはなく、地球温暖化が進んでるとは言え、京都は盆地なので、夏の暑さは格別で、窓のない部屋はとにかく暑かったです。夏は、扇風機と濡れタオルを腹の上にかけで寝ていました。
今は、多分、大家さんと同じ表札の個人の一戸建てに変わっていましたので、私と同い年の息子さんの家だと想像しました。
とにかく広い部屋だったので、一時期、友人やバイト仲間が常に4~5人居候していて、たまり場になっていました。
西大路通りと丸太町通りの角、円町から近いところで、横筋に、山陰線が通っていました。大学に通う夜の帰り道には、自転車で色々な順路で散策しながら、帰っていたのです。
ある日、電灯のない階段のある山陰線の踏切に出くわして、仕方ないから、自転車を持ち上げて渡っていると、線路につまづいてこけて、向う脛を打って「痛っ」とか言ってたのは覚えています。
しばらくすると、遠くから「汽笛の音と警報機の音」がこだまのように聞こえてきて、我に返ってパッと振り返ると・・・その光に照らされて、特急電車が目の前に迫っていて、慌てて、寝たまま、自転車を放り投げ、2~3回体を回転させると、特急電車が通り過ぎたという話しです。どの位の余裕があったのか正直覚えていません。
ただ、私の中では狐につままれたような感覚で、「汽笛の音と警報機の音」で我に返ったから助かったような、何か不思議な感覚・瞬間でした。
それから、自転車で色々と道を変えて帰っていたけれど、二度と、その踏切に出会うことはありませんでした。
それからしばらくして、友人の紹介で「二十歳の原点」を書いた高野悦子さんのことを知ることとなり、本も読みました。
1949年生まれの私より10歳年上で、3回生の時に山陰線のこの辺りで、自殺した後、遺族が日記などを出版したということで、当時、ベストセラーになってました。
私は、密かに、高野さんが亡くなった場所と同じ場所だったので、高野悦子さんに召されたのではないかと思っていました。何か良くわからないけれど、不思議と確信のような感覚がありました。
今でも、正月には、高校駅伝で、西大路を北に走り抜けるので「円町のJRの跨線橋の下を通過しているところです・・・」と必ず紹介され、これを見るたびあの日のことを思い出します。
◆15 就職◆
大学卒業後、国税専門官(12期生)として、広島国税局に採用され、相続税や譲渡所得の資産税を担当しました。独身時代に倉敷に3年、世帯で福山に1年、単身で東京に2年間住み、あとは広島で暮らしました。それと、岡山に2年間、新幹通勤をしました。
広島国税局資産課長間補佐、税務大学校教授、岡山西税務署副署長を経て、53歳の時に親の介護のため、中途退職しました。組織に大切にしていただき、色々なことを学び、本当に感謝しています。
初めて相続税の調査を担当した年に行った先、23歳の頃だと思います。
広島駅前、猿猴川のほとりに住むおばあちゃんから聞いたピカドンの話は、一生、忘れることができない衝撃で、私の心にずっと残っていました。
◆16 50を過ぎて選んだ職業◆
53歳で国税局を退職し、親の介護がひと段落してから、広島湾に浮かぶ金輪島の土地を購入し、数年後「マリンリゾート土龍」をはじめました。営業しながら、敷地を毎年、少しずつ、整備してきました。最初の頃は、特に、猪被害には往生しました。
53歳から65歳までの12年間は、いろんなことが恐縮され、駆け足で過ぎた感があります。仕事を辞め、両親を見送り、島の店の開店のほか、脳梗塞と離婚も経験しました。でも、本当に自分がやりたかったこと、ずっと蓄えていたことが一気に花開き、形にできたと思います。
色々なことを、その時、その時の判断で決断し、前に進んできました。正直、やりすぎ、手を広げすぎと反省することも多かったです。
少なくとも、躊躇なくやってきたので、現状維持でやらないことを選択するよりも後悔のない選択だったと思います。
そろそろ、新しいことはやめ、今まで取り組んできたことを充実させ、ソフトに、体を大切に、いたわりながら、原爆の遺骨と向き合い、皆さんに喜んで頂けるように工夫したいと思います。
遊び心のある穏やかな年寄りになって、社会に貢献したいと心から願っています。
まだまだ、やりたいことが沢山あるので、リハビリを頑張って、健康に留意し、できる限り、元気で長生きしたいと思います。
65歳となり、「税理士」を始めました。
最後の最後まで、現役として、人の役に立つ人間でありたいと思います。
◆17 これからのこと◆
正直、仕事運には恵まれ過ぎていましたから、その分、家庭的には恵まれませんでした。それは自分自身を過大評価し、家族を省みなかった自分の責任で、自業自得でもありました。丁度、バランスはとれていたと思います。
結婚はもうコリゴリで、離婚するために大変な思いをしましたし、楽しい思い出は皆無で、一人が気楽でいいと思ってきました。
でも、それ以上に、長期入院生活はや退院直後は本当に辛く、一人では耐え切れず、心が折れそうになったことを時々思い出します。
今は、差し当たり、不安や不便なことはないですが、年をとったせいなのか「一人は寂しいなぁ」と感じることが多くなり、他愛もないことも、笑いながら一緒に穏やかに過ごしていける「パートナー」との生活に憧れます。
66歳という年齢や脳梗塞の後遺症を考えると、冷静に考えて「再婚」は難しいのかなぁと思います。それでも、つつましい生活を送るなら、二人が生活するだけの収入や住まいはありますし、最後まであきらめずに、わずかな可能性を信じ、正直に穏やかに話をしてくれる人との出会いを願っています。
どうかこんな私ですが、よろしくお願いいたします。