◆私の想い 1◆◇

 

 私がこの島でやりたいこと、大きなテーマが3つありました。

 心密かに温めてたきたことですが、金輪島の土地を買い、少しづつ整備してきました。今年が丁度10年目の節目になります。

 その間に、コロナでお客様が全く来なくなったこと、自身、脳梗塞を発症し、約4か月の入院の後、今も、リハビリを続けています。

 台風で全国から義援金を頂戴するような被害にも遭いました。

 色々なこと、紆余曲折がありましたが、少しずつ、前に進んでいると感じます。

 

 3つの大きなテーマは、海と山に囲まれた自然豊かな広島湾を望むこの島の立地だからできることです。

 

1) 「音楽」って、もっともっと「自然で」「開放的で」「自由で」「何の制約や縛りもなく」楽しめるものであって欲しい。

 それは、「もぐら」って名前の意味でもあります。

 地下室のような空間から、抜け出して、自然の中で思いっきり遊ぼうやってことです。

 

 お酒の好きな方はほろ酔い気分で、一番やりたい曲をやりたい音量で、思いっきり演奏し・・・眠くなったら、ハンモックに揺られながら、生音を聞きながら、うたたねをする・・・そんな最高に贅沢で、我が儘なひと時を過ごせる場所を提供し続けていたい。

 そのまま、野外ライブもできる場所なのです。

 

2) 平和の大切さを実感できる空間であり続けて欲しい。

  広島湾を東の端から西の端にある神の島、宮島を見渡すこの島のロケーション。

  終戦から、何十年も経って、人の記憶から消え去っても、しずかに、原爆で亡くなった人、それも海の藻屑と消えた人の魂を鎮めるために、自然体で祈りを捧げ、鎮魂歌を奏で続けたいと思います。

 自然一杯で、民家が近くにないから、騒音も比較的、問題になりません。

 そのような場所であり続けたいと思います。

  

3) 日本の未来を担う子供たちが、自然の中で様々な体験をし、そこから何かを学び、逞しく生きる術を身につける一助を担いたい。

 簡単にいうと、子供達の自然の遊び場を提供したい。

 

 ですから、子供食堂や各種子供会の幹事等の皆様には、どのような条件でも前向きに検討しますので、相談してください

 

 そんなことを考えながら、10年経ちました。

 

 健康で、この身が続く限り、この場所を「誰もが面白い場所だね」「他にないなぁ」「遊び心満載だね」と思ってくれるような夢の島に変えて行きたいと思います。

 

 本業のライブハウスは、抜けのいい音を目指し、ピアノをグランドに変えるなど、工夫し、今は、この音の環境に満足しています。こんなものかなと思っています。

 

 集めた生ギターは、随分と値上がりしました。生ギター好きには、楽しんでもらえてます。

 海に面したデッキをステージにし、野外ライブができる環境をつくったのですが、実際には、野外ライブは、一度しかやっていないので、これからに期待したいと思います。誰もみな、出演する機会は欲しいけど、自分のお客様を呼ぼうとはしないみたいです。私は、ただ、海に向かい鎮魂歌を歌って欲しいだけですが、なかなか理解されません。

 

 最初に50本以上植えた果樹も随分と実るようになり、子供たちに、収穫体験をして楽しんでもらえるようになりました。無農薬で育つ果樹だけを育ててきました。

 敷地に植えた芝生も生え揃ってきました。

 猪対策で、敷地の四方にネットを張り、猪対策ができてからは、草刈も慣れてきました。

 

 個人的には、趣味で、露天風呂、檜のサウナ、薪ストーブ、大画面のシアターなどを造りました。次から次へと興味のあること、やりたいことを実現してきました。

 

 一方、鶏を放し飼いにし、とれたて卵を食べたいと計画しましたが、鶏インフルの関係で、やむなく断念しました。

 池を造り、ホタルを増やしたいと蛍池計画を進めましたが、ここ数年、6月に島に泊まることはなく、今どうなっているのか分かりません。

 

 次に、やりたいことは、秘密基地「ツリーハウス」を建てること

 

 「牡蠣いかだ」の竹が大量に流れ着きます。この竹を何かに使えないか・・・と考えた末、最近「ツリーハウス」がいいのでは?と思うようになりました。

 長いものは10m程度はあります。せめて高さ5mの東洋ならではの建築。

 涼しくて、眺めのよい夏だけ限定の「ツリーハウス」いや「バンブーハウス」を作りたいと思っています。

 

 安全性に配慮しつつ、遊び心満載の「バンブーハウス」を建てます。

 期待しないで、待っていてください。

 

 

◇◆私の想い 2◆◇

 

◇◆この海での出来事◆◇

もぐらの前面の海は、広島湾を一望するロケーションです。

広島湾の東の端に位置し、西の端の宮島の方向に砂浜と海が広がり、季節によって位置は変わりますが、ほぼ、正面に夕日が沈みます。

晴れた午後には、海がキラキラ照らされ、宝石のように眩しいです。

 

この海の底には、「海の藻屑」と化した原爆の犠牲者の「遺骨」が眠っています。

ヒロシマの原爆で約14万人が亡くなり、その何割かの遺骨は海の底です。

原爆投下の前後での住民基本台帳による住民の数の減少と亡くなられた人の遺体の実数から行方不明の人の数が推計できます。そのほとんどが海の底にいると思われます。

1945年8月6日8時15分、今から79年前の出来事でした。

 

原爆の被害として、直接的にはピカドンの高熱や市中の火災の影響で、火の海と化し、やけどで亡くなった人の割合が非常に高いことが特徴として挙げられます。

喉の渇きや体の火照りをいやすために川に入る人や橋が壊れていたので、体力がないのに、泳いで渡ろうとして流された人などがいて、かなりの人が川で亡くなったようです。

 

私は、彼ら、彼女たちがその後どうなったのかを想像しました。 

被害者の方がどのような想いで死んでいったのかも想像しました

彼ら、彼女たちの声なき声に、そっと耳を澄まして、聴こうと努めました。

原爆に関する書籍を読みあさり、当時のことも学びました。

各所に無縁仏を祀る墓所があること、未だに遺骨のご遺族を探していることも知りました。

 

せめて、私にできることとして、多くの仏像や仏画、石仏を遺骨が眠る海、宮島の方向に安置し、祈りを捧げています。

島にある原爆慰霊碑も、もぐらの山手の高い位置にあり、同じように、海、宮島の方向を向いて建っています。

 

◆ピカドン◆ 

ピカドンにより重症を負った人は、火傷を負い、体が熱く火照り、喉が渇くので、水を求めて川に集まってきました。汚染された水を飲み、安心したかのようにパタパタと力尽き、死んでいったといいます。

潮が満ちてくると、川面にプカプカと浮かび上り、上流に流され・・・

そして引き潮になると河口の方向に流されていきました。

そのまま、今も、深い深い海の底、海の藻屑となって広島湾に眠っています。

 

最近、聞いた話だと、夜には、川面に浮かぶご遺体がほのかに光っていたそうです。真偽のほど、放射能との関係も分かりませんが、何となく、本当の話のように思えますし、「魂」が行き場なく彷徨う姿を想像し、ホタルの飛ぶ姿に似てると思いました。

 

県北に疎開していて、数日後には広島に戻り、眼にした光景。

数日間、川面が沢山のご遺体で埋め尽くされ、それをただ茫然と見ているしかなかったとのことです。

駅前の猿猴川で実際に見た風景の話を聞いたのですが、爆心地により近い元安川などでは、もっと悲惨な光景だったと想像できます。 

40年前、23歳の時にその話を聞き、衝撃を受けました。悲惨な情景が目に浮かび、原爆が現実のこととして、心がキュッとなりました。

 

思い残したこと、やり残したことは沢山あって、熱い、痛い、苦しい、悔しい思いで死んでいったのだと思いました。

自分の身に何が起こったのか何も分からないまま・・・。私だったら、そんな死に方、死んでも死にきれないと・・・せめて、意味のある死に方をしたいと・・・頭で考えるとそう思います。

でも、実際にその立場になったら・・・この状況は、現実のこととして受け入れられないです。

 

犠牲者の数は圧倒的な数で、数の問題ではないのですが、いつの時代も、忘れることなく、冥福を祈って欲しいと思います。

もっともっと沢山の人にこの悲惨な出来事や今も海の底に眠る魂のことをイメージしてもらいたいです。

この魂を供養するために、何かできることはないかと漠然と感じてきました。 

 

 ◆命について◆ 

子供の頃、葬儀の後、遺体を火葬する場面に立ち合い、箸でお骨を拾うのを見て、何とも言えない切ない気持ちになりました。

「死んだら、体にあったはずの自分の【心】はどこに行くのか」真剣に考えました。答えは今も見つかっていません。 

「体」が「遺骨」に、「変わり果てた姿」がなんとも哀れでした。

「自分も死んだらあんな風に焼かれてしまうのか」「熱くないのか」「死にたくないな」と。

哀れな姿だけど、元いた場所「遺骨」を大切にしなければ、戻る場所がなくなるとそんな気がしました。

 

海では、魚や鯨などの海洋生物が「生まれて死ぬ」の繰り返しです。陸上でも、生きとし生けるものが自然に、土に帰っていき、その数は無限です。

人間だけが特別な存在と思うのは思い上がりでしょうから、一個の生物として忘れ去られることが自然な姿なのかもしれません。

仮に、生まれ変われるとして、次に、人間として生まれてくる確率は、天文学的な数値だと思います。そんな風に人間に都合よくできていると考えるのは、人間が作った空想、物語だからだと思います。

全ての生物は死んだら「無」に戻り、また、次の命が生まれ、そこに新しい「心」が宿ることの繰り返しだと、冷静に考えるとそういうことだと思います。

 

でも、一方で、摩訶不思議な出来事、人類の知恵では説明できない事象があるのも事実だと思います。そこに各宗教の意義があるのだと思うし、幽霊や妖怪の存在や各所に存する「いたこ」の存在、UFOの話、怨念の概念など数えきれず、これらが全て空想と断定するには、余りに真実味、現実味があると感じます。

 

20代の頃、恐山に行き、雰囲気にのまれて、怖くなって逃げ帰ったことを覚えています。あの時は、得体のしれぬ恐怖を感じ、自分の感性として、あの場所に止まることができないような感じでした。もう一度、この歳で行ったら何かを感じるのか確かめたいです。

 

人類は、地球上でトップに君臨する存在だから、何でも分かるわけではないし、だから、新しい発見や不可思議なことがあって、それを解明しようと努力し、いろいろと面白いんだと思います。

 

◆広島と長崎の役割◆ 

一つ間違いないことは、戦争がエスカレートし、原爆の使用に至ってしまうと、世界の生物がみな滅亡するような兵器で、あらゆる手を尽くしても、阻止すべきことだということです。

 

歴史的にみると、日本が仕掛けた戦争で、戦争を終わらせるために原爆が使用され、その威力の大きさを目の当たりにしました。

当時の技術で、一発で、ほぼ、広島市の中区の距離に住む人の全員の殺傷能力のある兵器ですから、原爆の使用は、人類・生物の滅亡を意味し、そのことを世界に知らしめることができるのは、広島と長崎だけですから、この街の使命だと思っています。

 

原爆を落とした経緯を推測すると、偉そうだとは思いますが、あえて私見を述べますと、日本に責任があったと思います。最初に、真珠湾攻撃などを仕掛けたのも日本ですし、負けが明白な戦況でも「神風が吹く」「本土決戦」「竹槍でも戦う」「特攻隊」と、日本が負けを認めず、多くの国民の命を見殺しにしたのも事実です。

だから、当事者のアメリカと日本が率先して、あらゆる情報の開示、周知を行い、二度と原爆は使用しないための方策に最優先で取り組んで欲しいです。そのような環境作りの地道な努力を続けて欲しいと思います。

 

◆世界の今◆  

世界で、これらの事実に目を伏せ、人の命を軽んじて、戦争を繰り返している現実があります。

人類の歴史は、結局のところ、戦争の歴史で、「人類は滅びるまで、戦争を止めない」ことは歴史が証明しているのかもしれません。

核兵器の使用は「人を殺す程度をわきまえろ」「節度を持って人を殺せ」って話になり、「五十歩百歩」の程度論でしかなくなります。

 

例えば、大局的にも、食物連鎖で、人間を食べる奴がいない代わりに、「人間を殺すのは人間」の役割で、度が過ぎ、殺し過ぎると人間が絶滅危惧種になってしまうという単純な話かもしれません。

 

だからと言って、簡単に諦めたくないです。

悪あがきと言われても、「こんな悲惨なことは二度とあってはならない」と単純に思います。

「人間は、そんなにバカではない」「人類の滅亡を人類は望まない」と思いたいから、いつまでも、いつの時も、世界の負の遺産としての原爆の遺品を大切に保存し、被爆者の声を残し「こんなに悲惨なんだよ」って、世界平和を訴え続けたいと思います。

 

 ◆お墓と仏壇◆

私は仏教徒で、通常、家に「戒名」の入ったお位牌と仏壇があり、別の場所に、お墓があって、その中に「遺骨」が収められています。

 

私の漠然とした想いですが、平和記念公園には、原爆で亡くなった方の「芳名録」が収められていますから、いわば「仏壇」のような役割を持っていると思います。

それとは別に、海の底に眠る遺骨には、「お墓」としてお参りするイメージを持っています。

平和記念公園の「ご芳名」がどこまで網羅されているかは分かりませんが、この海の藻屑となった魂・遺骨を供養することによって、救われる魂があるような気がします。

 

話しは逸れますが、東北の津波の際も、いまだに数千の遺体が見つかっていませんが、恐らく、津波の犠牲者ですから、大半のご遺体は海に流され、海の底に眠っていると私は想像します。

再発防止のため、海に沿って高い堤防は作られました。近いところからは、海が見えなくなりました。

では、海の底に眠る魂を鎮めるために何ができるのでしょうか。

犠牲者追悼の目的と二度とこのようなことを繰り返さない誓いの想いを込め、小高い丘に、記念碑のようなもの、お墓のようなもの、ハード面だけでなく、そんなソフト面も大切にしたいと私は思います。

 

◆金輪島の悲しい歴史 その1◆

金輪島は、戦時中、陸軍の島で、似島と同様に、いわゆる「地図にない島」でした。

文献によると、原爆が落とされた後、病院はどこも一杯で混乱しており、軍の広い施設があったことから、原爆の重症者が市内から船で金輪島に運ばれ、多くの人が手当の甲斐なく、死に至ったとあります。島の原爆慰霊碑には500人と書かれていますが、それ以上の数と話す人が多いようです。

 

戦後、この島は、1951年に、防空壕を含む陸軍の施設、土地、建物一帯が「金輪島ドック」に払い下げされました。

終戦から6年後のこと、GHQの統治が解かれたのが1952年4月のことでしたから、まだ、GHQの統治下で、「戦後の混乱期の真っ只中」だったと思います。

 

私の感触では、「余りにも早いなぁ」と感じました。

「戦争の残務整理よりも、戦後の復興を急いだ」ことが表向きの理由だと思いますが、この背景には、まだ、他の理由、隠された謎があると思います。

 

◆金輪島の悲しい歴史 その2◆

「開かずの扉」を開けさせないため、永遠に「開かずの扉」であるため、GHQが広島市の所有地ではなく、民有地にしたのだと、密かに思っています。

 

現に、ドックの土地として、終戦当時のままの手つかずの設備が数多くあります。一部はテレビなどに公開されていますが、未公開の所も数多くあります。

防空壕やトンネルなど、秘密の横穴をあちこちに掘った形跡がありますので、格好の隠し場所として、軍事機密なんかも眠っていたと想像できます。

それがGHQの狙いだったと想像できるし、「隠したい事実」があったと思います。

 

 私は推理小説が好きです。常々「人の死なない推理小説」はないものかと思ってきたけれど・・・書きたいです。私が書こうと思います。

ここまでは事実で、ここから先がフィクションとして、ただ、現実にあっただろうことを想像して、飛躍しないように気を付けて、書きたいと思います。

 

「金輪島ドック」から「西武ドック」に移り、今は、「新来島宇品ドック」になっています。 

 

島の土地、周囲5.3Kmの島の約3/4が「金輪島ドック」の敷地で、残りの約1/4の土地、概ね、島の北側の土地は、北海道と同じく、この島を開墾した個人に払い下げられました。

 

公有地は、広島市のほんの数十mの主要道路しかありません。あとから寄付されたものと思われます。市や国の土地がなければ、市などは、権限の問題で何も手が付けられないと聞いたことがあります。 

 

市内では、高度成長期などに宅地造成やマンション開発の際に、併せて、遺骨の掘り起こし作業をしたものと思われます。

似島は、市の所有地が比較的多くあり、市の予算の元、整備が行われ、また、個人所有地が多く、比較的、開発が進んだ印象があります。

 

◆金輪島の悲しい歴史 その3◆  

金輪島は、大部分の防空壕や当時の弾薬庫、古いトンネルの跡などがドックの土地であったから、戦後79年の今も当時のまま残っています。

軍の秘密主義により謎の部分が多く、ひょっとすると、未だに宝が眠っているかもしれません。とにかく、花崗岩の島なので、79年間の風化は激しいですが、今も、そのまま残されています。

 

住民に聞いたのですが、今は新しいトンネルができできて、封鎖されていますが、ただ横穴を掘っただけの古いトンネルがありました。

人が一人通れるだけのトンネルです。

入口は、今も確認できます。

 

このトンネルは、戦後にあることが分かったという話しでした。

陸軍は、戦前、このトンネルの存在を住民等に知られないように隠してしたと思われます。島の西側に行くための東西のトンネルです。

島の山頂には飛行機の目印となる設備がありましたが、島の西側は、建物はなく、構築物としての弾薬庫があった位で、勿論、人もいませんでした。軍は、何のためにトンネルを掘ってまで、島の西側に行きたかったのか、何かを隠すことのほか、食糧等の保存・備蓄のためとも想像できます。でも、詳細不明です。

今でも、島の西側には、当施設ほか、3~4件の民家と別荘がある位です。

 

西武ドックの時代に、リゾート開発しようと、工事を始め、途中で頓挫した形跡が一部に残っています。それから、もぐらの前の浜の南側の小高い丘に、戦時中に戦いを鼓舞するような碑に文字が刻まれていましたが、数年前に取り外されたようです。地元の人によると、戦争の慰霊碑で、以前はよくお参りしたとのことです。

 

原爆や戦争の遺品がそのままの状態で残っているのは、今では本当に貴重です。

今は、ひっそりと猫やタヌキの住み家となっています。

私は、「守り神」みたいで、それもある意味、自然な姿なのかなぁと思うようになりました。

 

◆金輪島の悲しい歴史 その4◆ 

当時の話を色々と聞きました。

真夏なので、死体の腐敗が激しく、やむなく防空壕で燃やしたという話しを数人の人からききました。当時の混乱と亡くなった人の数からすると現実味のある話です。

そのあとのことは、良くわかりません。

ひょっとすると、そままま、遺骨が防空壕の中に眠っている可能もあるのではと、私は思っていますが、定かではありません。

そのようなことを含め、そのままの姿を保存するから価値があると思います。

 

似島でも、戦争の遺品が人の手によって管理され、残されていますが、ここは、手つかずの状態で、謎の部分が多いことが価値があり、面白いと思います。

 

「人により語り継ぐ」という手法は、徐々に難しくなります。

当時の遺品を当時のまま、沢山の人に観て頂き、解明する楽しみを含め、何を感じるか、私は、それに期待したいと思います。 

 

◆サミット◆ 

2023年5月、G7サミットが前のプリンスホテルで行われました。各国の首相やゼレンスキー大統領も来ました。それをテレビ朝日の報道の人が泊まり込みで撮影していました。

 ここは「平和について考える」場所だと思っています。

 

「広島」と「長崎」は、原爆が投下された唯一の街です。多くの人の命が一瞬で奪われました。

「広島」と「長崎」にしかできないことがあるとすれば、それは、最優先ですべきだと思います。 

私は、この海の底に眠る「遺骨」の「魂」を前に、何ができるかを問い続けてきました。長年、私にできることは何かと、真摯に向き合ってきました。

 

被爆経験者の多くが亡くなる頃になり、もう体験談を直接、語れる人は少なくなりました。年数がたてば、風化するのも仕方ないのかもしれません。残念に思います。

 

◆私の半生◆ 

私は、山口県下関市で育ちました。高杉晋作が吐血した場所、松田優作が育った場所、幕末の頃、賑わった歓楽街の近くです。子供の頃は、その名残がありました。

関西小学校、文洋中学校、下関西高校に進み、大学は、京都の立命館大学に進学しました。

卒業後、国税専門官という資格の12期生として、広島国税局に採用され、主に、資産税を担当し、広島で暮らしました。

広島国税局資産課長間補佐、税務大学校教授、岡山西税務署副署長を経て、53歳の時に親の介護のため、中途退職しました。組織に大切にしていただき、色々なことを学び、本当に感謝しています。

 

初めて相続税の調査を担当した年に行った先、23歳の頃だと思います。

広島駅前、猿猴川のほとりに住むおばあちゃんから聞いたピカドンの話は、一生、忘れることができないものでした

 

53歳で国税局を退職し、65歳となった今、この12年間で、本当にやりたかったことが形になったと思います。これからは、ここを維持し、ソフト面の充実を図っていきたいと思います。

65歳となり、「税理士」を始めました。最後の最後まで、現役で人の役に立つ人間でいたいと思います。

 

家族は妻と子が1人いましたが、こんな感じなので、理解されずに、早くから家庭内では孤立し、無視され、早くから、別居していました。61歳の時、脳梗塞で4か月弱入院し、退院直後に、決断し、正式に離婚しました。

私の不徳の致す限りで、申し訳なかったです。

 

一人が気楽でいいと思ってきましたが、長期入院生活を経験し、その前後は本当に辛く、心が折れそうになりました。今は、差し当たり不便なことはないですが、年をとったせいなのか、考え方もあの頃とは変わり「相老」に憧れます。

 

◆50歳を過ぎてから◆

親の介護がひと段落した頃から、私にできることを一つずつ、実践し、行動に移しました。

公務員を辞めたのを転機に、やりたいことを躊躇なくやろうと決めて、そのために貯蓄はしてきたので、貯蓄の範囲内で出来ることを目一杯やりました。

何ができるか分かりませんが、残された時間も限られているので、自分なりにやりたいことを思うがままにやってきた感じです。 

 

金輪島の古い建物付の800坪の土地との出会いがあり、この場所だと直感し、即買い、中古建物の修理、新築建物の建築、ライブハウスのオープン、営業、敷地の整備と自転車をこぐように約10年間で取り組み、ここまで辿り着来ました。

 

この場所でやりたいことのイメージとして、儲けよりも「海の魂を鎮める音楽、鎮魂歌を心を込めて歌い、奏でる場所を作りたい」との思いが柱にありました。

 

私は、できれば、原爆で亡くなった方の海に眠る魂の「防人」みたいな存在になりたいと。「防人」の意味をよく理解していませんし、具体的に何をするのか分かりませんが、職業欄にはシャレで「防人」と書きたいです。とにかく、これからの半生は、この海、この場所と共にありたいと思いました。

 

◆ライブハウス◆ 

ライブハウスをはじめて、10年になります。

 

音楽に限らず、真に、この場所が気に入った方に来て欲しいという想いが強くなり、途中、名前を「ライブハウス土龍」から「マリンリゾート土龍」に改めました。徐々に学習し、しつこく誘うことはなくなりました。

 

私は、子供達には、こんな場所で、逞しく遊び、自然の偉大さを肌で感じ取り、学んで欲しいと願っています。でも、そのような考え方で子供達と接し、実践することは難しいことのようです。

 

友人などの本音は、総じて「惜しい」「汚い」「不便」「虫が嫌い」などが多いようです概ね、中国地方の地方や島しょ部の出身者が多いです。

だから、田舎の原景色は珍しくないし、そもそも、田舎から抜け出したいとの思いが強いようで、総じて車の依存度が高く、橋のない島は、残念ですが、彼らには興味ないようです。

 

私は、車には乗らないので、公共交通機関で通勤できる島は他になく、この場所しかないと思いました。でも、一般には、時間がかかってもドライブがてらに車で行ける場所が望ましいようで、この島に住んでいるのは、事実、70歳以上の高齢者だけです。

 

生活水準には下方硬直性があるといわれますが、今の生活水準は落としたくないし「今更、不便な田舎暮らしには戻れない」というのが本音のようです。

正直、都市の生活に慣れ親しんた人が中心となり、皆が中流意識以上で、その生活を望んでいます。

大局的には、これからは、資源もなく、働かない年寄りだらけの国ですから、そんな生産性は望めないです。

 

例えば、色々な理由で、人生に挫折したとして、その後の生き方の選択肢について、どう考えるかです。

前向きに捉え、田舎で、心機一転、人間的に暮らしたいと考える人はいないようです。田舎なら、なんとか暮らしていけるにも関わらず、都会に留まり、街の路上生活者や孤独死が増えると想定されます。

街はスラム化し、田舎は空き家だらけになっていく。

これからの日本は、どうなるのかなぁと心配です。

 

私は、少なくとも「逞しく生きる術」を取り戻さない限り、全員が生き延びることはできないと思っています。  

 

ライブハウスの運営は、色々と試行錯誤を続けました。最初は割と有名な人も招きましたが、色々と面倒なので止めました。

コロナ禍で、ライブができない時期と脳梗塞のリハビリの時期とが一致したことは幸いでした。

 

私は、接客業には向いていないなぁとつくづく思いました。30年間、税務署勤務でしたから、ある意味「殿様商売」という印象だと想像します。私自身は「殿様商売」との認識はありませんが、平等だと思っています。それも私の本質なので、仕方ないと思います。 

 

◆私の職業◆

私は、仕事には、「生活費を稼ぐためのもの」と「天から授かったもの」「生きた証」みたいなものと2種類あると思っています。

 

生活費は、主に、株式売買で稼ぎたいと思っています。いい時も悪い時もありますが、しっかりと勉強し、リスク分散など最大の注意を払い、大局観のある投資を心掛け、幸いそれなりの成果がありました。今は、欲を出さず、使いたい分だけ稼ぎたいと思います。

他人を巻き込まず、自己責任で完結しますし、勉強の成果が結果に現れます。現物取引だけなので、我慢するときは我慢するから、私に向いている職業です。

 

それと、金輪島のお店も落ち着いたので、「税理士業」を始めようと思います。税務署を辞めて12年、経験に勉強を重ね、誠実に取り組みたいと思います。

 

ここ金輪島のお店は、「魂は売らない」こだわりの「天職」だと思っています。

 

◆神聖な場所◆ 

音楽を仕事としている人には、それぞれ苦労もあると思います。でも、何か違和感を感じることがありました。なんか小さいことにこだわっているなぁと感じました。

 

海に眠る魂・遺骨は、ただ、黙って、にこやかに微笑みを浮かべている気がします。素朴というか自然体で全てを許すことから始まる気がします。 

「心を込めて魂で歌い、奏でて欲しい」それでいいと思います。

一番好きなことは、仕事抜きに、もっと自由に音楽を楽しみたいです。 

 

そんな意味で、この場所は、私にとっては「神聖な場所」なので、価値観等の同じ人に来て欲しいし、お世辞や駆け引きはできるだけ避けたいと思います。

 

原爆の話をすると「もう、うんざりです」という顔をされることが多いので、自分からはしなくなりました。でも、密かに、ここの存在価値として、こだわり続けようと思います。

 

だから、お客様が来なくても、平然としていたいです。それは覚悟の上です。そのため、維持費を抑えた経営を心掛けています。

 

50歳を過ぎて始めたので、無借金ですし、基本的に、人件費のいらないよう私ひとりで出来ることを無理なくやっています。経常的な経費は固定資産税と光熱費くらいで、なんとかやれています。

 

◆鎮魂歌の演奏等◆

事前にご連絡をいただければ、希望者、賛同しただける方に、ここで、「鎮魂歌」を奏で、歌って頂きたいです。

お客様は、数万人の海に眠る魂です。

ただ、心をこめ、「鎮魂歌」を奏で、歌って頂きたいです。それがこの場所の存在意義ですし、ここまで読んで頂いたお礼です。よろしくお願いいたします。

 

平日も天気が良いと草刈りなどに来ています。用事がなければ対応いたします。

ピアノ、ギターなどの楽器もお貸しいたします。

是非、一度、連絡して、訪ねてきてください。

 

来場希望者は、このホームペーシの「問い合わせ」からの連絡をお願いします。一応、携帯電話やメールアドレスも表示しています。

なお、私が金輪島に来るのが不定期ですので、突然は難しいです。せめて、1週間前のご連絡をお願い致します。

 

 電話番号 090-9467-2119 (福井和久) 

 メールaddress [email protected]

 

◆この場所の今◆ 

私も、脳梗塞をしてから、友達の好意で再び歌うことができました。本当に感謝しています。

これから、さらにリハビリを頑張って、もう一度、ギターを弾いて、歌いたいと、それが今の私の夢、目標です。

 

さださんが長崎で無料野外ライブを続けていました。すごいことで、大変だったと思います。分相応に、やれることは違うと今は思っています。

私は、1年で挫折しました。100人の規模の野外がいつでもできるのは、魅力的だと思いますが、集客は大変で、天気も読めないので厳しかったです。

まだ、あきらめていませんが、まあ、ボチボチとやっていきます。

 

さださんが小林繁さんに贈ったギターで私なりの鎮魂歌を唄い続けたいたいと単純に思っています。

 

試行錯誤をしましたが、10年間で、全体の形、ハード面はイメージしたとおりに整いました。果実も実るようになり、芝生なども生え揃いました。毎年、少しづつですが、楽になり、自然体で真に楽しめるようになりました。

とても、綺麗とは言えませんが、私一人でマイペースで整備していますので、好きな方は、是非、いらしてください。

 

◆ソフト面◆ 

次に、ハード面からソフト面のお話しです。

 

金輪島に来た日には、風の音に耳を傾け、お香を焚き、両手を合わせ、拝みます。それで、雑念を取り払い、神聖な気持ちになることが日課となりました。

脳梗塞をしてから特に、このことが習慣になって、金輪島に来るのが心から楽しみになりました。

 

私にとって、なんだか心穏やかに、血圧が低く保たれる「神聖な場所」で、ここが一番、熟睡できる気がします。

特に、下界で、嫌な事なんかあると、この場所に逃げ帰るように、金輪島に帰ると「全て、忘れて、救われる」ような気持ちになります。

だから「打算的な要素を持ち込みたくない」「打算は全て本土に置いてこよう」としています。 

 

池を造り、井戸水を流し、ホタルも育てました。ピカドンの犠牲者の魂と錯覚するような光です。

 

慰めに、風の音を聞きたいと思い、様々な鳴り物を試してみましたが、結局、風鈴の音が一番落ち着くと思い、数集めました。いい音です。

 

色々なことをやってみました。永く続くことやすぐに止めてしまったことがあり、試行錯誤の日々でした。

 

◆様々な人の力を借りて◆

一つ続けていることがあります。

様々な仏像や仏画、石仏などを置き、多くの人々の思いを力に変えて、平和への思いを重ね合わせ、祈りを捧げています。

 

特定の宗教にこだわりはないのですが、仏教に馴染みがあるので、仏像や仏画、石仏を集め、安置しました。

平和を祈る様々な作家の仏像・仏画を中心とした彫刻や絵画作品を集め、それから広島ゆかりの人の作品をこの金輪島もぐらに安置し、一緒に祈り、考えたいと思っています。

一人では何もできないけれど、様々な思いが込められた作品の数々から、勇気や希望、尊厳、力、想像力、色々なものを貰っています。

 

圓鍔勝三氏、池田遊子氏、矢形勇氏等の広島出身の方の彫った仏像があります。

 

◆平山郁夫、安倍晋三、本田美奈子・・・◆ 

被爆者である「平山郁夫」さんの直筆と思われる平和を祈る色紙を手にしました。

修道学園内にある被曝建物の碑建立の際の物です。この色紙がこの場所を探し当ててくれたと感じました。

「歴史に生きる」と記しています。まさに、平山郁夫氏の平和への思いが込められた貴重な作品です

 

また、「安倍晋三」氏が「夢」と書いた文字を前に、それは残念ながら印刷ですが、いい表情をしています。「彼は本当は日本をどう変えようとしていたのだろうか」「どのような夢を描いていたのだろうか」と。

 

色々と批判があることは承知していますが、それだけの力・影響力を持った人であったのも事実てす。

私の父が彼の父、安倍晋太郎氏を応援していたこともあり、同郷の人間として、ずっと応援してました。昨年、奈良の「銃弾に倒れた駅」に立ちました。何もなかったようにひっそりとしていました。道半ばで、本当に悔しかったと思います。だから、ここに置いています。

 

「本田美奈子」さんは、生きていたら56歳。彼女の生き様には、歌の神様が憑いたような迫力、すごみがありました。50歳、60歳代の歌姫のアメージングクレイスを聞きたいです。生き返って歌を歌って欲しい人、ナンバー1ですから、異質ですが、サイン入りの「ミス・サイゴン」のチラシを飾っています。彼女は、「歌と結婚したから、誰とも結婚できない」と言っていたそうです。

 

「坂本竜馬」の肖像画をも欲しくなり、坂本竜馬がこの時代に生きていたら、一体何をしただろうか、そんなことも考えました。

 

まあ、私は「イタコ」ではありませんので、降りては来ませんが、時々、ドラマのシナリオを考えたりします。考え方を寄せることはできる気がします。

様々な人の立場に立って、その人になり変わって想像すると違う世界が見えたりして、面白いです

 

◆何でも鑑定団◆

私の主観で決めた様々なジャンルの作品群を「なんでも鑑定団」に応募したいと考えています。準備出来次第、採用されるまで、買い続け、応募しようという覚悟です。とにかく、なんか面白いことをやり続け、その一つがテレビに出たいと手を尽くし、いつも新鮮な気持ちでのぞみたいと思います。

 

ただし、平和を祈る気持ちや原爆で亡くなった人の魂を鎮める気持ちは忘れず、そういう意味で心が動いた作品を、ブレずに買い続けようと思います。

 

世界平和は人類共通の願いであり、戦争による犠牲者の霊を慰め、歴史的悲惨を教訓とし、一切の核兵器の根絶と恒久平和を念願していると信じたいです。

大きな意味で、そんなテーマの作品を集めたいと思います。

それも、私の一生のライフワークですが、趣味で集めた物が増えすぎです。 

 

◆興味のある方へ◆

この後、具体的に買い集めた品を徐々にあげていこうと思いますので、興味のある方は、見て頂きたいです。

 

実際に、実物も観て頂きたいし、できれば、一緒に祈りを捧げて欲しいと思います。そして、何かメッセージ、爪痕を残していただきたいと願っています。

 

ただし、この長文を読んでくれるとは誰も思っていないので、私から、この話題に触れることはありません。

事前にご連絡をいただき、「実際に作品をみてみたい」と一言、よろしくお願いいたします。このホームペーシの「問い合わせ」からお願いします。

 

◆コレクションの数々◆   

私は、例えば、古いサイン入りレコードを集め、飾っています。サイン本なんかも沢山持っています。

 

サイン入りにこだわるのは、直筆で本物だとすると、一瞬でも、本人が触れたものですから、何かしら本人の想い、意志が伝わってくるような気がするのです。傍にいて、見守ってくれる気がするのです。

 

戦争当時の物、例えば、オキュパイドジャパン( MADE IN OCCUPIED JAPAN)と印刷された、戦後の占領下の限られた時期の作品も好きで、沢山集めています。何となく当時の匂いがして思いを馳せることができる気がします。

最も、惨めな時期でしたが、それを逞しさ、勤勉さで乗り越え、最も、生き生きと輝いていた時代だと思います。

 

ギターも、例えば、マーチン1946年製を弾くと、本当に乾いたいい音がして、当時のことが蘇る気がします。

 

とにかく、私自身、末永く健康状態を保ち、そのような感性を持ち続け、もぐらの敷地を綺麗に維持しながら、平和を祈り、鎮魂歌を歌い、奏でようと思っています。あと、20年は続けたいと思います。

 

◆シーグラス◆◇

砂浜で拾ったガラスの破片、かどの丸くなったシーグラスの話です。

この海のものは特別だと思っています。

原爆の遺品である可能性が高いこと、また、海の底で原爆の遺骨と同居してきたものです。

被爆者の魂が宿っていて、原爆の遺骨を拾っているような錯覚に陥ります。

 

砂浜で拾ったシーグラスに、②ルーターで穴を明け、③専用のバチカンで、ネックレスを作ろうという運動をします。

オンリーワンのものですし、みんなが「平和を願い作ったもの」として、一生の思い出になります。

無料で製作をお手伝いし、併せて、良ければ、「平和活動への寄付」を募りたいと思います。

 

それと、今からの話ですが、これで何か大きな造形物を造りたいと、壮大な計画を立てています。

8月6日に灯篭に火を灯すのも良いかと思います。

海に流すことはせず、浜に無数の灯篭をと考えています。

 

考えがまとまるまで、とにかく地道に集めています。 

 

順次、主要な作品を紹介しようと思います。

客観的に、鑑定団に採用されるほど貴重なものがあるとは思いませんが、私には、いずれも思い入れのある貴重なお宝です。

 

 

◇◇小林繁さんの遺品ヤマハギター◇◇

 

「ヤマハ1979.1 to 小林繁 スペシャル オーダー プレゼント by さだまさし」

と書いてあります。

 テリーズテリーのテリー中本さんがまだヤマハにいた頃で、彼の筆跡らしいです。ハカランダのギターで大阪の中古楽器店で買ったものです。

 

 さださんが小林さんに贈ったものの実物と思われます。

 江川事件で、小林さんが巨人から阪神へのトレードを告知されたのが1979.1.31のことですから、仲の良かった小林さんに惜別の想いで贈ったものだと思います。

 江川事件の説明は、省きますが、当時、プロ野球界を騒がせた大きな事件でした。さださんは、小林さんと仲がよく、ラジオ番組で一緒だったのを記憶しています。

 

 小林さんは、2010年に若くして亡くなっていますから、遺族の方が売却したと思います。さださんのファンの私としては、そんな尊い貴重なギターが中古楽器店の店頭にあるのが忍びなく買わせていただいたものです。約60万円と記憶しています。

 

 小林さんは、亜紀子というヒット曲のほか、5枚のシングルを出してるようですが、ギターは弾かなかったようです。ケースの中で眠っていました。購入後、眠り姫を誰が起こすのかと、良く弾いていたので乾いてなるようになりました。バインディングが縮み、割れましたし、松脂だと思いますが、表板の一部の色が変わっていますが音には関係なく、いいギターです。60年代のマーチンD35と同じ、3Pのハカランダです。

 

 値段としては、これより高価なギターは何本かありますが、小林さんやさださんの複雑な思いが詰まったギターで、小林さんは亡くなっていますから、思い入れという面では、一番のギターです。弾いてみたい方は、どうぞ弾いてやってください。できれば、そんなギターですから、アルコールが入る前にして欲しいと思います。

 

 ちなみに、数年前「なんでも鑑定団」に鑑定依頼しましたが、返事はないです。